- 川澄 信子さん 茨城県在住
- 第1子/1988年8月生まれ/社会人/32歳(男)
- 第2子/1989年12月生まれ/社会人/31歳(女)
※掲載の年齢は取材時のものです。
写真撮影協力:信子さんのご主人
子育てとの両立は考えられない世界
子どもを産む前は
東京で大手アパレルメーカーの
ファッションデザイナーとして
バリバリ働いていました。
当時のアパレル業界では
結婚・出産しないのが当たり前でしたね。
とくに東京の第一線にいる
ファッションデザイナーの先輩方は
結婚していない方ばかりでしたから
まわりも「そうあるべき」という
雰囲気でしたね。
子どもを持つなんてもってのほかでした。
ですからいまでも現役の
同世代や先輩の皆さまは
結婚もしていない方が多いです。
でも私の場合、高校生時代に
『子どもは2人産む』って決めてたんです。
ですから29歳で子どもを妊娠して
会社を辞めました。
仕事は続けたかったですけどね。
1年間の無職を経験しました。
社会と関わりがなくなったような気持ちで
もぅ、これがつらかった。
仕事がしたくてしたくて
たまらなかったんです。
仕事も子育てもあきらめなかった
それから
第一子が産まれて
主人の故郷の水戸に
戻ることになりました。
慣れ親しんだ東京を離れるのは嫌でしたけど
主人は長男でしたし
戻らざるを得なかったんですよね。
そういう定めだと思って
水戸にやってきました。
そして年子の第二子が産まれます。
1989年、バブル景気の頃です。
テナントを借りて
主人のアンティークショップの隣に
私も自分のアトリエを設けることにしました。
いま振り返ってもスゴイですね。
引っ越しに、年子に、アトリエオープンに・・・
大きな借金も抱えて
記憶もないくらい必死でした。
第一子を保育園にあずけながら
第二子は一緒にアトリエへ連れて行って
お店の隅っこのところに
ベビーベッドを置きましてね
お客さまの接客をしながら
うしろで
「ふぎゃ~ふぎゃ~」
って声が聴こえたら
「ごゆっくりご覧ください」
と言い残して
急いで赤ちゃんにおっぱいをあげてました。
おっぱいをあげると泣き止むので
またお店に出て。
昼間はそんな感じでお店に立って
メーカーのお仕事も引き受けてましたので
夜は自宅で作業です。
ピークの頃は睡眠時間3時間で
やってましたね。
夜中に赤ちゃんが泣くでしょ?
そしたら授乳して
赤ちゃんを寝かしたら
そのタイミングで私は起きて仕事です。
赤ちゃんの泣き声が
目覚まし時計代わりですね(笑)
おかげさまで面白いことに
二番目の子は
全然手がかかりませんでした。
大きくなってからも
長男はなんでもパッと言うけれど
第二子の長女は
あんまり言ってこなかったですね。
我慢させたかなぁ~と
思うこともあります。
でもいまは映画の勉強がしたいと言って
テキサスに行ったかと思えば
勝手にニューヨークに行って
今度はブルックリン大学に
通うことに決めたよ。と。
全部自分で決めて
自分で行動する子になっています。
仕事場から子どもの気配を感じられる家
第一子が小学校に入学するときに
いまの家を建てました。
仕事場を兼ねながら
自宅の様子を見られるつくりにしました。
私は仕事が一番、子育てはおまけ
みたいな生活でしたから。
子どもたちに叱られますね(笑)
画家の主人のアトリエや絵画教室も
兼ねておりましたので
私のアトリエのスタッフや
色んな人が出入りする家になりました。
私自身、子どもの頃
「ただいま」って言っても
返事がなくて寂しかったんですよね。
「おかえり」って返ってくると
ほっとした記憶があるんです。
だから自分の子どもたちには
「おかえり」って
言いたかったんです。
学校に行きたくない長男の様子
第一子の長男が小学校の時
学校に行きたくないと言うことがありました。
給食の時間になると
お腹が痛いと言って帰って来てましたね。
仕事で忙しかった私には
心配する余裕はなかったですね。
でも、アトリエが自宅と一緒だったから
いつもと違う息子の行動や雰囲気に
気づけたんですよね。
あとはね
「そうはいってもお兄ちゃんは大丈夫」
と、心が通じ合っている確信だけは
あったんですよね。不思議と。
だから何も言わずに見守っていました。
主人には
「学校の給食は美味しいんだから~
給食ぐらい食べておいでよ~」
とか言われながら(笑)
いつの間にか
普通に行くようになっていました。
友だちの悪い誘惑?涙の2時間
長男は中学に入ってから
荒れた年がありました。
バスケットボール部に入っていたんですが
オスグッドになって
(成長期の子どもに発生しやすい膝の痛み)
帰宅部になったんです。
ある日、
見慣れないダボダボの服を着て
出て行こうとしている息子をみて
「ちょっとおいで」
と引き止めました。
私もファッションデザイナーですので
子ども服にもこだわっていたんです。
なのに
見たこともない
ダボダボの服を着ているし
なんだか様子がおかしいと
感じたんですよね。
「どうしたの?そんな格好して」
と聞くと
「外で友だちが待ってる」
と言うんです。
タバコを吸うお友だちが
家の外で待っていました。
「どんな格好をしてもいいけど
それが〇〇くんらしい格好なの?」
そこから息子は無言です。
私は
このまま行かせてはいけないと思って
必死で話しました。
「何をやってもいいけれど
〇〇くんらしく生きていかないと!」
涙があふれてきて
止まりませんでした。
話し続けて気づけば2時間です。
外の友だちはもう待っていませんでした。
息子は2時間ずっと黙ったまま
でも、
立ち去ろうとはせずに
私の話を聞いていました。
本人も行くことを
迷ってたんじゃないですかね?
このことを機に
息子と本当に心が通じたと思えました。
この子は大丈夫、とね。
いまは東京で
メンズのファッションデザイナーを
していますよ。
穴があったら入りたい!失敗談
幼稚園のときに
「ドーナツを作るので
エプロンを持たせてください」
と言われまして。
あとで写真を見たら
うちの子だけ
“赤ちゃん”のエプロンを
窮屈そう~に着てるんです!
みんな幼稚園にもなったら
キッチンでお手伝いするような
エプロンを持ってるんですよね。
私はそういうのを
用意もしていなければ
息子の体の成長にも気づかず
ちっちゃいエプロンを
持たせてしまったんですね。
あれは写真をみて
恥ずかしかったですね(笑)
失敗談、まだありますね。
小学生の保護者参観で
『おむすびころりん』をやるので
「おむすびを持ってきてって
先生に言われた」
と息子から聞きました。
「どういうおむすび?」
と私が聞くと
息子は教科書を見せてくれました。
笹の葉の上に並んだ
おむすびの絵がありました。
「わかったよ」
と言って一生懸命作りました。
そうしたら翌日
学校へ持っていった息子が
「ほかの子のおむすびと違う」
と言うんです。
でも私は教科書どおりに作りましたし
「何が違うの?これの通り作ったのよ?」
と。
息子はしぶしぶそのまま引き下がりました。
そして参観日当日
「♪おむすびコロリン
コロコロリン」
と言いながら
ほかの子どもたちは
お家で作ってきた
立体的なおむすびを
コロコロリンと転がすんです。
うちの息子はと言うと
私が丁寧に丁寧に描いた
おむすびの【絵】を持って
コロコロリン?
ヒラヒラと・・・(笑)
もう、穴があるのなら
私のほうが入りたかった!
どれだけ失敗しても大丈夫
「ウエディング マリア」設立30周年の
記念パーティーを開いたとき
サプライズで息子から花束をもらったんです。
そのときのメッセージが印象的でした。
息子が反抗期の時に
家の中を歩いていると
私が仕事で作った
ドレスの型紙がアトリエからはみ出して
床に落ちていたみたいなんです。
息子は、これ邪魔だな!と思って
その型紙をビリビリに破いたんですね。
型紙というのはデザイナーにとって
命のようなものですから
それを見た私はその場に
泣き崩れたんだそうです。
私と同じファッションデザイナーになって
型紙の大切さを知ったいま、
改めて本当に申し訳ないことをした。と
謝ってくれました。
その事件、
私は覚えてないんですよね。
でも息子はずっと
心に引っかかっていたようです。
親として色んな失敗をしてきて
親は親で子どもに
「申し訳なかった」と思っているんですが
意外と思い込みの場合も多いんですよね。
いっそ、声に出して
言ってしまったほうがいい。
〇〇しなさい!
じゃなくて
アイ(I)メッセージでね。
私が、どう感じたか。
私は、どうしてほしいか。
子どもを信頼するのが
一番ですね。
川澄信子さん 素敵な子育てエピソードを
ありがとうございました!
ドレスデザイナーとして活躍中の川澄信子さん。「マリアさん」の愛称でも知られています。某大手アパレルメーカー独立後、茨城県水戸市にてアトリエ『ウエディングマリア』をオープン。「ベラドンナ・アート展」で全国公募女性アーティストの作品の中から3度も“大賞”に輝いた実績をお持ちです。ウエディングドレス製作の経験を活かして婚活中の男女をサポートするウエディングセラピストとしても活動されています。
http://www.wedding-maria.com/